『学校の先生とも、親とも違う存在』
はじめまして、3月15日付けで稲門学舎日暮里校の教室長になりました、和田 学(わだ まなぶ)と申します。宜しくお願い致します。
最初から暴露話で申し訳ありませんが、私自身は、学生時代塾に通った経験がありません。石川県のと~っても田舎で育ちましたので、塾があったのかも定かではありません。当然、中学は町立です。高校受験も大学受験も、何とかかんとか学校の先生方に迷惑をかけながら乗り越えてきたので、「塾に通う」ということ自体が、私にとって未知の世界でした。そんな私が塾の先生になり、そして教室長になって、分かったこと・気付いたことがあります。それは、『今の東京には、絶対に塾は必要だ!』ということです。
中学受験生はもちろん!ただ、それとは全く別の意味で、私は感じているのです。それは、東京の公立小・中学校の半崩壊的なクラスの状態を、何校も目の当たりにしたからです(実際に公立中学校の公開授業を見て回りました)。その状況は、授業の基本である“教師が生徒を集中させる”ということができていなかったのです。
集中していない生徒は「ん?今のよく分からなかったな~?」を積み重ねてしまうでしょうし、集中している生徒との差はどんどん開いてしまいます。そうなれば、教師が生徒を集中させることは益々困難になります。後は、生徒の方から先生のところに行って質問するしか方法はありません。私は、稲門学舎の生徒達に聞いてみました。「わからなかった時、学校の先生に聞いてる?」と、子ども達の答えは素直でした。
「先生が嫌いだから聞かな~い」
「聞くとイヤそうな顔をするから、もう聞かな~い」
「聞いたけど、分からないと怒るからもうイヤ」
「何か負けたみたいで、聞きたくないな」
これが本音でした。
つまりは、教師と生徒の関係(教える人・教わる人)がそもそも崩壊しているのかもしれません。こればかりは、学校の先生だけを責めるわけにはいきませんが…。でも、授業に集中していない子どもたちは確実に、「わからない」→「つまらない」→「勉強しない」→「更にわからない」の勉強嫌いスパイラルに陥っていきます。
子ども達にとって、学校の先生は「わからない所を教えてくれる人」あるいは「わかるようになる方法を教えてくれる人」という存在でないのであれば、だれがその存在を補うのでしょうか。私です…(笑)。
先日、『国語、大っきらい!』と言う中1のK君が、春期講習で私の国語の授業を4日間受けてくれました。全てが終わって『つらかった?』と聞くと、K君『やっぱり数学の方が得意だけど、先生の国語は楽しかったよ。』と言ってくれました。『良く分かった』とは言ってくれませんでしたが、K君にとって私は、「教えてもらいたい存在」に一歩近づくことができたようです。そして、つくづくK君の可能性の大きさを感じました。彼は必ず伸びます。
稲門学舎日暮里校が、日暮里に無くてはならない存在に、そして、私の存在も同様であるよう、まだまだではありますが今後も精進させていただきます。